田中吉政

(1548年〜1609年)

柳川掘割を整備した「筑後国主」

1600年の関ヶ原の戦いにおいて、敵方大将石田三成を捕らえる等で活躍した田中吉政公。その功績が認められ、久留米藩と柳川藩を含む初代筑後国主として柳川城に入城しました。柳川城をはじめ、掘割や道路、干拓の整備を早々に進めたと言われています。現在、観光客に楽しまれる川下りのコースは、ほぼその時代に造られたものといわれ、古くから土木・治水の神様として広く尊敬されています。

1609年、江戸に向かう途中に京都の伏見で没した吉政公は、藤吉村(現在の柳川市新町)に埋葬するよう遺言を残していました。その埋葬の目印の石を中心に建立されたのが真勝寺で、山号は「田中山(でんちゅうざん)」。その本堂自体が吉政公の墓とされており、その目印の石の真上に御本尊が安置される建築方法になっております。四角錐のその石は、キリスト教徒の高位者にしか使用しないといわれるピンク石が使用されており、上面には十字がきられたような紋様があります。この建築方法は全国的にみても、当寺だけのようであり、今だ他には発見されておりません。戒名には、キリシタン大名によく使用されていたという『桐』の文字が使われています。吉政公がキリスト教徒であったという資料はありませんが、現在でもお参りにみえられる方の中にキリスト教徒の方も多くいらっしゃるそうです。お寺へのお参りですので、信仰を語らずに静かに参る方も多いようです。

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