立花誾千代
(1569年〜1602年)
女城主の経歴を持つ初代柳川藩主の妻
現在の大分県に拠点おいていた大友氏の家臣戸次道雪の一人娘だった誾千代姫。弱冠7歳で、立花山城(福岡市東区にある立花山山頂にあった城)の城督となりました。女城主については、各地に話は残されてはいますが、文書で確認できるのは誾千代姫だけだと言われています。
1581年には、道雪と同じく大友氏に仕えていた高橋紹運の長男(宗茂)を婿に迎えます。1587年、豊臣秀吉公の九州平定において活躍した宗茂公は、筑後三郡の大名となり、柳川城に入城。誾千代姫も奥方とともに柳川城に入りましたが、ほどなく城の南方に居宅を設けて住むことになります。その居宅が建てられた地名から「宮永様」と呼ばれるようになりました。
関ヶ原の戦い後、負けた西軍についた宗茂公は柳川城を明け渡し浪人となります。誾千代姫は、宗茂公と仲の良かった熊本藩藩主加藤清正の計らいで、玉名郡腹赤村に、数名の侍女とともに居住する事になります。しかし、ほどなく病にかかり1602年34歳の若さでこの世を去る事となります。
一度改易された宗茂公は、徳川家に認められ(異例ながら)再び柳川の大名となります。柳川に戻った宗茂公は、誾千代姫を弔うために柳川市西魚屋町にお寺(良清寺)を建てました。また、宗茂公と誾千代姫の実父道雪とともに三柱神社(三橋町高畑)に祭神として祀られています。