文字で見る柳川

城を守った「鋤先土居」

川下り乗り場からゆっくりと舟に揺られ、柳川橋をくぐり抜けると、急に視界が開け、広く真っすぐな川にでます。ここは、隅町の「鋤先土居(すきさきどい)」と呼ばれ、藩時代、柳川城の東側の城郭として大きな役割を果たしていた場所です。藩時代には掘り幅が25メートル前後あり、鋤先土居は距離が約720メートルにして5.4メートルの幅を持つ堤防だったと言われています。

 

鋤先土居には、かつて水門が3カ所あり有事の際の要となっていました。 ひとつは北端にある明王院隅のすぐ南、もうひとつは現在の柳川橋の南、そして瀬高御門南です。この3カ所のうち、柳川橋南にあたる門は隠し水門として、生い茂った草木で隠されていました。なぜ、1つだけが隠されていたのか。それは、柳川城が有事の際に他の水門を閉ざし、鋤先土居の東側を水で溢れさせる事により東岸一帯を湿地とし敵を柳川城に近寄らせないようにするためだったと考えられています。 例え、2つの水門を閉ざしたとしても、隠し水門を開けていれば水は掘割を通って城内を巡り、城内の人々の生活用水や農業用水を確保できます。洪水や高潮の時には、3カ所の水門を閉ざすことで城内を守ることができたのです。この作戦は1度も使われることはありませんでしたが、柳川城にとって鋤先土居は城の運命を左右する大きな役割を果たしていたのです。今は、柳川橋を抜けた通りが残されるのみとなりましたが、舟でゆっくりと下りながら、昔の柳川城に思いを馳せる事のできるスポットとなっています。

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106人の侍町

南は宮永町、東は三橋町に接する町、奥州町。かつては奥州小路と言われ、立花宗茂が奥州(福島県)棚倉から柳川藩主へと命を受けた時に引き連れて来た侍106人に割り当てられた小路です。それ故、小路に「奥州」を冠しました。奥州町という町名は、日本ではこの奥州町以外ありません。

 

奥州町には杉森高校や福厳寺などがあります。杉森高校は明治35(1905)年、杉森シカが女子教育の場として私塾杉森女紅会を創立したことから始まります。また、福厳寺は立花柳川藩の歴代藩主の霊廟があり、毎年大晦日は除夜の鐘の音が辺りに響きます。 奥州町は、柳川の歴史が集う場所なのです。

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生きるためのお堀

現在の柳川の地に人々が住み始めたのは2200年程前です。湿地帯であった当時の柳川。その湿地帯に掘割を掘ることによって土地の水はけを良くし、掘割を巡らせることで水を確保しました。

 

掘割を掘る事でできた土は、住宅を建てるための土盛りに利用され、湿地だった土地も洪水や高潮などを防ぎ、人々が生きていくため住みやすい環境へと整えられていきました。掘割の水は田畑への農業用水や人々の大切な生活用水として使用されてきたのです。 このようにして、居住地範囲を広くのばして来た柳川は、有明海の満潮時には海面の方が居住の土地より高くなります。低く平らな地で人々が生きていくためには、堀はなくてはならないものだったのです。

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