日本一になった晒業

かつて、ローソクや化粧品、関取の鬢付け油としても使われていた「白蝋」。戦前から 昭和20年代、柳川市はこの「白蝋」の製作工程に欠かせない「晒(さらし)業」が盛んで昭和20年代に最盛期をむかえました。

「白蝋」が完成するまでには、様々な工程と人が関わります。 まずは蝋屋(問屋)が原料となる櫨(ハゼ)の実を集め絞り、木蝋(または生蝋という)をつくります。 次に蝋屋は「晒業者」にこの木蝋の晒しを委託します。 「晒業者」は、この木蝋を炊く→固める→削る→天日に晒すという工程を3回繰り返すのです。 「晒し」の作業はとても繊細で、雨が降ると蝋は流れてしまい、風が吹くと飛んでしまう。暑すぎても溶けてしまうので、水をまかなくてはならず一時も目を離せなかったそうです。 こうして苦労してつくられた蝋は、白色で形も丸くお正月のときに飾るお餅のようです。

 

当時、製造された木蝋や白蝋は高価で取引されました。 柳川藩では元禄16(1703)年に「櫨運上の制」を定め木蝋の製造を促進。 当時は田畑や道筋には、蝋の原料となる櫨(ハゼ)の木が多く植えられ、秋になると筑後平野を赤く染めていました。

 

木蝋業が特に盛んであったのが、三橋町です。年間日照時間は長く、夏期の天候が良いこと等、晒業にむいた場所だったようです。 白蝋は、化粧品やローソクの他にも、文房具、繊維用、医薬品等として広く使われ、三橋町の白蝋は昭和20年代に生産日本一に。白蝋は三橋町の特産品となりました。

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