立花宗茂

(1567年〜1642年)

天下人に「鎮西一」と称された義の武将

1567年、大友氏に仕えていた高橋紹運の長男として生まれた宗茂公。1581年には、同じく大友氏に仕えた戸次道雪の一人娘誾千代姫の娘婿となります。7歳から立花山城の城督を継いでいた誾千代姫は、それを宗茂公に譲りました。

立花宗茂公は、豊臣秀吉公の九州平定時の活躍が認められ、筑後三郡を与えられ、大名の身分となります。まもなく、熊本の豪族が反乱を起こし宗茂公も鎮圧にあたります。反乱を起こした豪族の一部は柳川に預けられ、秀吉公から処刑の命令が出されます。若き宗茂公はそれに背き、柳川藩士と決闘させた「黒門前の決闘」は、豪族を武士と死なせたとして、当時の天下人秀吉公から「鎮西一の武将」と称されたとされています。

関ヶ原の戦いでは、秀吉公に忠義を示し、まわりの進言に背き西軍につきました。関ヶ原の戦いで敗戦後、柳川城を明け渡した宗茂公は浪人生活を送ります。家臣に慕われた宗茂公には、浪人中にも関わらず、多くの付き人がいたと言われます。その後、棚倉藩1万石(現在の福島県)の大名の身分に復帰し、最終的には3万5千石に加増されました。

そして、筑後国主田中家断絶ののち、柳川藩主として返り咲きました。一度改易され、旧領に復帰したのは宗茂公だけだと言われています。妻誾千代姫と義父戸次道雪とともに祭神として祀られている三柱神社(三橋町高畑)には、宗茂公が柳川に復帰した事にちなみ「蘇り」の御守りがあります。

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