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立花文子

伯爵令嬢から料亭女将へ

立花文子 【たちばなあやこ】 1910-2010

 

明治・大正・昭和・平成、激変する世の中を「なんとかなるわよ」と

明るく生きた女性がいます。

 

立花文子は明治43年(1910)、伯爵立花家の次女として生まれました。

父は立花家15代当主・鑑徳、そして母は田安徳川家9代当主達孝の娘・艶子。

 

文子の生まれた立花家は、戦国武将を祖先とし、江戸時代には藩主として柳川を治めていた歴史ある家です。

 

姉が夭折し、文子は伯爵立花家の跡取りとなります。伯爵令嬢でありながら、

お茶やお花の稽古よりも体力作りに重きを置いた教育を受け、テニスやスキーを楽しみ、父と一緒に猟に出かける活発な娘に育ちました。特にテニスは、20歳の誕生日に父からプレゼントされたテニスコートで練習を重ね、全日本テニス選手権女子ダブルスで優勝するほどの腕前になったのでした。

 

昭和10年(1935)、元帥・島村速雄の次男・和雄と結婚。婿養子の和雄は帝室林野局で働く勤め人でした。2人だけの新婚生活が名古屋で始まります。その後は和雄の転勤に伴い北海道や木曽へと転居。そうして長男宗鑑を筆頭に3男3女に恵まれます。

 

昭和20年(1945)、終戦後の農地改革によって、立花家が東京や柳川に所有していた土地の大部分を手放すことになりました。加えて財産税、さらには和雄が鑑徳から家督を譲られたことによる相続税も重くのしかかってきました。多くのものを失ったけれど、残った財産はなんとしても守らなければならない。そう考えた文子と和雄は、柳川で殿様屋敷と呼ばれていた「御花」を利用して料亭を開業します。旧藩主家のお姫様が客の前で踊ったりお酌をしたりする姿に涙する人たちもいましたが、文子はいっこうに平気でした。根底に「どんな時にも動揺しないこと」という父の教えがあったのです。多くの借金を抱え、料亭の経営にも苦労する和雄を支えたのは、文子の明るい笑顔でした。

 

二人三脚の料亭業がようやく軌道にのったのは、それから10数年後のこと。その頃柳川は全国でも評判の観光地となり、たくさんの人が訪れるようになっていました。柳川の観光の基礎作りに協力してきた2人にとっても、それは嬉しい出来事でした。

 

平成22年(2010)、文子は100歳でその生涯を閉じました。100年の人生には大きな波が何度も訪れましたが、文子はすべてを明るく乗り越えていったのです。「なんとかなるわよ」と笑いながら。

幼少時の文子

新婚時代の和雄と文子立花和雄家

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田中吉政

(1548年〜1609年)

柳川掘割を整備した「筑後国主」

1600年の関ヶ原の戦いにおいて、敵方大将石田三成を捕らえる等で活躍した田中吉政公。その功績が認められ、久留米藩と柳川藩を含む初代筑後国主として柳川城に入城しました。柳川城をはじめ、掘割や道路、干拓の整備を早々に進めたと言われています。現在、観光客に楽しまれる川下りのコースは、ほぼその時代に造られたものといわれ、古くから土木・治水の神様として広く尊敬されています。

1609年、江戸に向かう途中に京都の伏見で没した吉政公は、藤吉村(現在の柳川市新町)に埋葬するよう遺言を残していました。その埋葬の目印の石を中心に建立されたのが真勝寺で、山号は「田中山(でんちゅうざん)」。その本堂自体が吉政公の墓とされており、その目印の石の真上に御本尊が安置される建築方法になっております。四角錐のその石は、キリスト教徒の高位者にしか使用しないといわれるピンク石が使用されており、上面には十字がきられたような紋様があります。この建築方法は全国的にみても、当寺だけのようであり、今だ他には発見されておりません。戒名には、キリシタン大名によく使用されていたという『桐』の文字が使われています。吉政公がキリスト教徒であったという資料はありませんが、現在でもお参りにみえられる方の中にキリスト教徒の方も多くいらっしゃるそうです。お寺へのお参りですので、信仰を語らずに静かに参る方も多いようです。

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立花誾千代

(1569年〜1602年)

女城主の経歴を持つ初代柳川藩主の妻

現在の大分県に拠点おいていた大友氏の家臣戸次道雪の一人娘だった誾千代姫。弱冠7歳で、立花山城(福岡市東区にある立花山山頂にあった城)の城督となりました。女城主については、各地に話は残されてはいますが、文書で確認できるのは誾千代姫だけだと言われています。

1581年には、道雪と同じく大友氏に仕えていた高橋紹運の長男(宗茂)を婿に迎えます。1587年、豊臣秀吉公の九州平定において活躍した宗茂公は、筑後三郡の大名となり、柳川城に入城。誾千代姫も奥方とともに柳川城に入りましたが、ほどなく城の南方に居宅を設けて住むことになります。その居宅が建てられた地名から「宮永様」と呼ばれるようになりました。

関ヶ原の戦い後、負けた西軍についた宗茂公は柳川城を明け渡し浪人となります。誾千代姫は、宗茂公と仲の良かった熊本藩藩主加藤清正の計らいで、玉名郡腹赤村に、数名の侍女とともに居住する事になります。しかし、ほどなく病にかかり1602年34歳の若さでこの世を去る事となります。

一度改易された宗茂公は、徳川家に認められ(異例ながら)再び柳川の大名となります。柳川に戻った宗茂公は、誾千代姫を弔うために柳川市西魚屋町にお寺(良清寺)を建てました。また、宗茂公と誾千代姫の実父道雪とともに三柱神社(三橋町高畑)に祭神として祀られています。

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立花宗茂

(1567年〜1642年)

天下人に「鎮西一」と称された義の武将

1567年、大友氏に仕えていた高橋紹運の長男として生まれた宗茂公。1581年には、同じく大友氏に仕えた戸次道雪の一人娘誾千代姫の娘婿となります。7歳から立花山城の城督を継いでいた誾千代姫は、それを宗茂公に譲りました。

立花宗茂公は、豊臣秀吉公の九州平定時の活躍が認められ、筑後三郡を与えられ、大名の身分となります。まもなく、熊本の豪族が反乱を起こし宗茂公も鎮圧にあたります。反乱を起こした豪族の一部は柳川に預けられ、秀吉公から処刑の命令が出されます。若き宗茂公はそれに背き、柳川藩士と決闘させた「黒門前の決闘」は、豪族を武士と死なせたとして、当時の天下人秀吉公から「鎮西一の武将」と称されたとされています。

関ヶ原の戦いでは、秀吉公に忠義を示し、まわりの進言に背き西軍につきました。関ヶ原の戦いで敗戦後、柳川城を明け渡した宗茂公は浪人生活を送ります。家臣に慕われた宗茂公には、浪人中にも関わらず、多くの付き人がいたと言われます。その後、棚倉藩1万石(現在の福島県)の大名の身分に復帰し、最終的には3万5千石に加増されました。

そして、筑後国主田中家断絶ののち、柳川藩主として返り咲きました。一度改易され、旧領に復帰したのは宗茂公だけだと言われています。妻誾千代姫と義父戸次道雪とともに祭神として祀られている三柱神社(三橋町高畑)には、宗茂公が柳川に復帰した事にちなみ「蘇り」の御守りがあります。

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